わんにゃん公園ものがたり
その一人と一頭は、〝公園デビュー〟の日からひときわ目を引く存在だった。
「見てママ、あのわんちゃんカッコいい!」
今朝は布団を抜け出すところを見つかり、寝直させられずとうとうついて来てしまった、と苦笑とともに語られていた小さなお嬢さんが上げた声に、近くのわんこパパママ仲間、通称イヌトモたちが一斉に反応して、指差す先へ視線を向けた。
まだ昇り始めたばかりの朝陽を背に、「颯爽」あるいは「威風堂々」という言葉を引き連れたような風情で公園に現れたのは、大きなドーベルマンだった。無駄なく引き締まったいかにも運動能力の高そうな体躯、紺がかった艶やかな黒の毛並み、聡明さと忠実性がありありと窺える精悍な顔つき。出会う全ての犬を常に本気で讃えつつ、内心では「でもうちの子が一番」と考えているはずの親バカならぬ飼い主バカたちから見ても、確かに格好いい、と納得できる佇まい。団地ばかりで大型犬の少ない地域柄、珍しさも加わって注目が集まる。既に見知っていると語る声はなく、どうやら初登場のわんこのようだった。
立派なドーベルマンの相方は誰ぞと隣に目を移せば、こちらも負けず劣らず体格のいい、スポーツキャップにランニングウェアにランニングバッグにランニングシューズという、飾り気ない賢げな眼鏡をかけている点を除けば、これで走らなかったら詐偽だろうとすら思える格好をした青年だった。道を数歩それた土の地面の上で立ち止まり、慣れた手つきでバッグから人間用と犬用のボトルを取り出して、先にわんちゃんへ水を飲ませてやっている。飼い主ポイントプラス1。
今日限りの立ち寄り客だろうか、それとも常連仲間候補だろうか、とイヌトモたちが声をかけかねてそわつく足元で、めいめい自由にしていたわんこたちも、新参者に挨拶しよう、させよう、と元気な数名がリードを引っ張り始める。
にわかに湧いた輪の中から、制止の手と指示を振り切っていち早く前へ駆け出したのは、ママいわく早寝のし過ぎで早朝から元気の爆発した、人間のお嬢さんだった。
「カッコいいわんちゃん、こんにちは!」
ママもあっと言って小さな背中を追いかけたが、弾丸のような勢いで飛び出していったお子様の足と、日ごろ犬の散歩程度の運動しかしない大人の足の速さは甲乙つけがたい、ならぬどんぐりの背比べだ。伸ばした腕をたやすくすり抜けた少女は、あっという間に新顔の二名の前に迫った。
どれほど人馴れした犬でも、子どもの突然の声や動きに驚いて、攻撃的な反応を起こしてしまうことがある。まして人も犬も初対面同士の状況。危ない、と次に巻き起こる騒ぎを予想してその場の誰もが身を竦めた次の瞬間、相手が見せた反応は、実に鮮やかなものだった。
鋭い「ダウン」のひと声でドーベルマンが瞬時に地面に身を伏せ、同時に青年の脚が一歩前へと踏み出る。リードを短く巻き持ち、飼い犬の身体と少女のあいだに身を入れ込む位置に立った青年は、不意の声かけに一片の不興も覗かせず、朗らかに挨拶を返した。
「こんにちは! こらこら、そんなに急ぐと危ないぞ!」
さっと前方へ差し出した腕は万が一の受け止めに備えたものに違いなかったが、少女は声に従って転ぶことなく足をゆるめた。後ろにママが追いついて、ぜえぜえと肩で息しながら、お叱りと青年への謝罪を続けざまに叫ぶ。
「もう、急に走っちゃだめ! わんちゃんもびっくりしちゃうでしょ! どうもすみません……!」
「いえいえ、元気なお嬢さんですね。飛び出しや転倒にはお気をつけて!」
青年が笑って手を振り、次に少女のほうへ身をかがませて、何やら注意の言葉をかけたらしい。うんうんと明るい顔で頷き合うふたりの足元、ぴんと立ち上がった耳を頭上で行き交う声に向けつつ、大きなドーベルマンは「伏せ」の姿勢を微動だにせず保っている。
「うわ、カッコいい……」
場の誰かが子どものような声を漏らして、周りのイヌトモたちのおそらく全員が、声なく深々と同意した。これほどスマートかつ寛大な子どものあしらい方は、子持ち世代が相手でもなかなか見られない。おまけにわんこも見た目の印象通りとても賢く忠実で、良くしつけられている。
誰からともなくいざと踏み出し、飼い主ポイントを一瞬にして満点にした青年は一瞬にしてイヌトモとその飼い犬たちに囲まれたが、全く物怖じせず丁寧に挨拶を返し続け、純粋な人間ポイントもすぐに満点へと達した。聞けば昨年社会人となり、この近く(と言っても十キロほど離れているらしい地域)で独り暮らしを始めたそうだ。長期の道路工事の影響で朝のジョギングルートを変えなければならなくなったため、初めてこちらの方面へ走って来てみたという。
我々は普段は愚痴もこぼれる周辺地域の美点をこぞって吹き込み、まれに見る好青年を公園のイヌトモ仲間に勧誘した。さほど迷いもなく朝のロードワークの正式ルートとすることを青年が声にして決めた頃には、騒がしいわんこたちとの挨拶を済ませたドーベルマンがまた姿勢良く伏せをして、小さなお嬢さんからの永遠を感じるなでなで攻撃を、「僕は大丈夫です」とでも言うかのごとき顔で静かに受け止め続けていた。
そんなこんなで公園の早朝レギュラーの一員に加わった青年は、たちまちご近所さん方の人気者となった。明るくやさしく真面目な性格、ややオーバーリアクション気味ながら誰に対しても丁寧な物腰、まっすぐ伸びた背すじが見映えを割り増しにする優れた体格、極めつけに、眼鏡のレンズといつも目深に被ったキャップ越しにも顔面の整いぶりが伝わるスポーツマンとくれば、どの方面からも揚げ足を取る隙はない。
そして青年と同様、ひょっとするとそれ以上に人気になったのは、なぜかほんのりと苦笑いを浮かべつつ名を教えてくれた、ドーベルマンのテンヤくんである。飼い主によく似て真面目で礼儀正しい彼は(なんとまだ一歳だそうで、年齢を聞いた瞬間に三歳を過ぎてようやくわんぱくが落ち着き始めた愛犬の武勇伝が一気に脳裏によみがえった)、臆病な小型犬にも気の強い和犬にもやさしく接し、自分より大きな狩猟犬を勇敢に一喝して過ぎたやんちゃを落ち着かせ、人間には老いも若きも幼きも問わず非常に友好的と、プロの使役犬顔負けの優秀ドッグだった。青年が素晴らしく発音良く唱えるコマンドに機敏に従う姿もこれまた実に決まっており、我が家も英語で憶えさせればよかった、と悔やんだ者が何名も生まれた。
実際に青年の仕事の手伝いをさせられないか訓練中だというテンヤくんは、我らイヌトモの連れるわんこたちに懐かれるのはもちろんのこと、何がきっかけだったのか、公園の片隅にたむろしていた野良の地域猫たちに見つかり、数日のうちにモテモテになってしまった。くっ付くとあたたかいからかな、しかし平均的には大型犬より猫のほうが体温は高いはず……などと真面目くさって考察する主人と、その傍らで「まだ大丈夫です」とでも言うかのごとき顔で猫団子になっている厳めしくも穏やかなドーベルマンを見て、みな腹を抱えて笑った。
そうしてふた月ばかりが穏やかに過ぎた、ある日の朝。
すっかり公園に姿の馴染んだ一人と一頭は、まるで馴染みのない新顔を伴い、「奇妙」あるいは「不可思議」という言葉を引き連れたような風情で公園に現れた。
「……テンヤくん、その子はだぁれ?」
いつものように青年と並んで駆けてきたとおぼしき雄々しいドーベルマンの背に、何かが乗っている。思わず語りかけたイヌトモに真っ先に応えたのは、ひょろりと揺れる細長い尾の動きだった。ぬいぐるみやロボットの見間違いではない。艶やかな黒毛の上にちょんと鎮座していたのは、正真正銘、一匹の猫であった。
またどこかで懐かれてきたのだろうか、と首傾げる我々に、青年が頬を掻いて説明を述べた。
「友人の飼い猫なんです。ゆうべからうちに一緒に泊まりに来ていて……急のことで首輪やハーネスの用意がなくてすみません」
おとなしい子で人に飛び付いたりはしませんので、と恐縮する青年の言葉を疑いはしなかったが、なぜ当たり前のようにテンヤくんの背に乗って一緒に現れたのか、奇妙な光景についての疑問も全く解消されなかった。そのお友達に頼まれたのかと再度訊ねる。
「いえ、友人は出がけにはまだ寝ていました。そろそろ起きたところかな……。この子もいつもはお寝坊さんなんですが、ゆうべからなんだか興奮していて、今朝すぐに起きてきたと思ったらこうしてしがみ付いて離れなくなってしまって」
仕方なくそのまま連れてきたんです、と語られた猫に、場を逃げ出そうとする気配は確かに微塵もなく、どころか自分を取り巻く人間と犬たちを一顧だにする様子もない。乗られている側のテンヤくんも、特に迷惑そうなそぶりは見せていなかった。旧知の関係ではあるらしい。お友だちも学生時代からの知り合いで、なんとテンヤくんの名付け親なのだという。
「仮の名前のはずだったんですが、友人がほかに案を出さずに呼び続けるし、職場に連れて行けば先輩方がそのまま呼ぶしで、いつの間にか定着してしまって……」
とそんなエピソードが語られるなか、くあ、と興味なさげにあくびをした猫は、耳先から顔へかかる模様のなかなか見ない赤といい、胴体部分のこれまた不思議な毛色といい、何より尻尾の先でぱちぱちと揺れる小さな火といい、どこからどう見ても、近年増えているという個性持ち、あるいは個性の作用によって生まれた動物個体だった。ひょっとして、とあまりに賢いテンヤくんにめいめいがうっすら抱いていた推測も、おそらく当たっていたのだろう。もちろん、それで忌避感を覚える人間などここにはいない。
そんなことよりこの状況についての解説がもう一幕欲しい、と困惑に包まれるイヌトモたちの輪に、その時、さらに外から近付いてきた一団があった。にゃあ、と太い声を上げたのは地域のボス猫で、テンヤくんの周りに団子を作りたがる猫たちの代表である。
今朝は冷えるぞ我らもそこに入れろ、とばかりに尾を立てて歩み寄ってきた猫たちが輪の中に入りかけたその時、ぼっ、と炎の爆ぜる音と、鋭い威嚇の声が場の中心、黒毛の大型犬の背中から上がった。思わず一歩あとずさる。
「あ、こらっ、ショ……、やめたまえ! 皆が怖がってしまうじゃないか!」
すぐに叱責が飛ぶも、小さな身体から発せられた、虎やライオンにも負けないような威圧の迫力に、野良猫たちは一匹残らずすくみ上がり、たちまち跳んで逃げていってしまっていた。叱られた猫はどこ吹く風の様で、んみゃ、などと可愛らしい声で鳴いてみせる。
もう、と眉を寄せた青年が周りへ再び頭を下げ、「シット」の号令でテンヤくんを座らせた。猫は乗る地面を失って後ろへ転げ落ちる、こともなく、するりと肩を伝って身軽く下へ降り立ち、ぴしりと地面を踏みしめるドーベルマンの前脚の間に当たり前のように収まる。その顔は変わらず猫らしい無表情ながらもどこか誇らしげな空気をまとい、「ここは俺の場所」「テンヤは俺が守る」と高らかに主張しているかのように見えた。あっ、という脳内呟きが、周りから一斉に発せられたのがわかった。
「もしかして、公園でテンヤくんが野良猫にモテモテな話、この猫ちゃんの前でしてた?」
イヌトモの一人が代表で確認する。青年は驚き顔で頷いた。
「ゆうべ友人に話しました。この子たちも同じ部屋に」
「それかあ」
仲良しなんだね、と語りかけると、猫がみゃあと鳴いた。そうだぞ、と人間の声が重なって聞こえた。満足げに揺れる尾と、ごろごろと上機嫌の音を立てる喉が、「一番は俺だぞ」「ほかの
猫は近付けさせねぇぞ」と語っているのが、犬飼いの我々にさえ伝わってきた。
熱烈な言葉を受けたテンヤくんはと言えば、きゅうん、と少し困ったような声を漏らしつつ、脚にすり寄る猫の額を鼻先で一度小突いたのち、そっと撫でるような仕草に変えて応えている。こちらは「乱暴は駄目だぞ」からの「君が一番特別だよ」の返事だ。
実にわかりやすい個性持ちわんにゃんたちの読心を終えて視線を青年へ移すと、ストレスだろうか、もっと遊んであげるよう言っておいたほうがいいかもしれない、と戸惑いの声で呟きながら、眉を八の字に弱らせ切っていた。
抱腹の衝動をこらえつつ、伝えるべきかそっとしておくべきか、この不思議な猫を飼う友人とは果たして何者かと訊ねて良いのか、大いに迷ったイヌトモたちは、翌年、初めて大々的に報道された若手ヒーローの素顔を見て驚き、三年後、記憶のわんにゃんズにそっくりなヒーローたちの交際発表を受けて飛び上がり、そのまた一年後、ふたり暮らしをするため引っ越すことになりまして、と丁寧な別れの挨拶を告げに訪れた一人と一頭、そしてその後ろに付いてきた一人と一匹を前に悲鳴と祝福の歓声を上げることとなるのだが、それはまだ少し先の物語なのだった。
おしまい。