猫の手方法論メソドロジー


 玄関で一度、リビングの戸口で一度、二度にわたって投じた「ただいま」の声に一切なんの反応もなかった時点でおおよそ察してはいたが、その夜、飯田は珍しく自室に根を張り、持ち帰ってきたか帰宅後に発生したかしたらしい、何やらの事務仕事に没頭していた。
 完全に閉じこもってしまう意思はなかったのだろうか、半開きの戸の隙間から中を覗くと、積み上げたファイルや書類を傍らに、PC画面とにらめっこをしている横顔が目に入った。眉間に刻んだ皺は深く、集中の度合いが窺える。
 そっとしておくべきかと迷ったが、遅れて帰宅に気付かせるほうがかえって恐縮させるだろうと思い、三度目の、少し張りを強めた声を中へ放った。相手への気遣いだけでなく、自身の欲求の都合もあった。
「飯田、ただいま」
 キーボードの打鍵音が止まり、顔がはたとこちらを向く。あ、と漏らした声は小さく、常の旺盛な活力が目に見えて減じていたが、疲れ果ててしまっているわけではなさそうだ。根詰めて作業に取り組んでいたがための消耗だろう。
「申し訳ない、イヤホンを付けていたから部屋の外の音が聞こえていなかったようだ……」
「気にすんな。こっちこそ中断させて悪い」
 いや大丈夫、と笑み浮かべる飯田だが、いつもの几帳面な正対姿勢を取ることなく、首から下はデスクに向けたままだ。よほど気が取られている仕事らしい。
 同業だからと甘く見過ごさず、公私の分別は意識してつけよう、と決め合ってはいるものの、ヒーローという特殊な職業柄、私的時間に一切の仕事を持ち込まない、という切り分けを果たすのはなかなか難しい。飛び込み任務の多くは事件・事故現場への招集だが、まれに書類やデータに向き合うたぐいの庶務が発生することもある。飯田の所属するIDATENは、おそらく数ある事務所の中でも指折りに分業の確立されたチームだが、それでも若きリーダー自らこなすべき業務が無くなりはしないようだ。生来の真面目で仕事熱心な気質を発揮し、率先して負っているものごともあるに違いない。
 そうして持ち帰ってきたあれこれが実は余剰のものだと察した際には、直接にあるいは婉曲に指摘し、急ぎでないなら俺にも構え、とデスクとのあいだに身を入れ込んで仕事から引きはがし、強制的に休ませてしまうこともある。しかし今夜のそれは本当に差し迫った務めであるようだ。約束破りだなどと馬鹿な苦言を吐く気はない。かと言って、そうか引き続き頑張れ、と投げっ放しで立ち去る気もない。
「今日いちゃつきてぇなと思ってたけど、忙しそうだな」
「あ……うん、すまない。この仕事だけ早めに済ませてしまいたいんだ」
「そうか。なんかほかに手が回ってねぇことで俺ができることあるか?」
「じゃあ、乾燥機の中に洗濯物がそのままになってしまっているから、畳んでしまっておいてくれるかな」
「わかった。やっとく。お前は急がなくていいから、無理すんなよ」
「ありがとう」
 現状の共有、意思の確認、課題の連携、計画の策定と実行。ヒーロー活動のみならず、ほとんどの組織的活動中に当たり前に(もちろんしかと身に付くまでにそれなりの時間は要したが)行われているそうした諸々を、私事においてはやり遂げられない、という事態はさほど珍しくもないらしい。ドアをそっと閉じてきびすを返した轟の脳裏に、先々週に催された、我が事務所の食事会中の雑談がよみがえってくる。
『――忙しいのはそりゃ仕方ないっスよ。でもお互い様だし……そこまで邪険にせんでも、て思うじゃないですかぁ」
 三つ歳下のサイドキックがテーブルに伏す勢いで嘆いたのは、数日前に恋人から喰らわされた肘鉄に関するエピソードだった。久方ぶりに家を訪れ、いざと触れかかったところ、仕事か家事か、何かしらの用事に追われていたらしい相手に強く拒絶され、説教まで頂戴してしまったのだという。
 うっかり逆鱗に触れて災難だったなとの同情に始まって、もう少し状況を慮って行動すべきだったという忠告、来ることを知っていて取る態度ではないという苦言、なんらかの積み重ねがあって爆発に至ったのではないかという推測、その他さまざまな感想が飛び交ったのち、示し合わせたように轟へ視線が集まった。事に通ぜずの自覚があるため、長らくその手の話題は聞き役に徹していたのだが、飯田との関係を公表してからというもの、折に触れて意見を求められるようになった。純粋なアドバイスを請われることもあるが、「ショートはどう思います」あるいは「ショートならどうします」の言葉が、「ではオチをどうぞ」と同じ響きをしていることもままある。
 あえて嘘を言う理由もなく、今ちょうど交わしたようなやり取りについてざっくりと語ると、驚きと感心と諦念が入り混じったような嘆息が返された。
『毎度おなじみですけど俺レベルには実践のハードルが高いんスよね……』
 ちょっと建設的過ぎて、との評価に始まって、自然にそんなスマートな掛け合いに至るのが凄いけど少し怖いだの、下手に形だけ真似をするとギブ&テイク固着志向の即物事務的人間のレッテルを貼られそうだだの、まず「いちゃいちゃしたい」の告白から入る時点でシャイな本邦国人の多くが脱落するだの、これまた実に好き放題にレビューが飛び交ったのち、最終的には「でもそれがひとつの理想ですよね」との結論に落ち着いていた。特に反論は出なかったものの、参考に足る意見として処理されたのかは今ひとつわからずじまいである。
 といった具合で「レベルが高い」「ハードルが高い」とやたらに持ち上げられがちな自分と飯田の関係だが、当事者としては、そこまで高等、まして高尚なものではない、と思っている。問題が生じるたびに解決の糸口を手探りで見つけ出し、互いにできること、できないことを縒り合わせ、いくつも失敗を演じながら、どうにか織り上げてきたやり方だ。今が完璧というわけでもなく、今後も反省と改善をくり返していくのだろう。幸い飯田はそうした積み重ねが大得意だし、自分も気早の性分が邪魔することはあれど、倦んで嫌うたちではない。
 どれほど互いを好いていようと、強い絆を結んでいようと、元はひとりとひとり、めいめい別の人間である。思考や行動のタイミングが合わない瞬間や、気持ちが通わない時間が生まれてしまうのは当然のことだ。まして察しの早さと良さには決して胸を張れない二名なので、何か思うところがあれば、己だけで抱え込まず速やかに議場へ引っ張り出し、相手と語り交わすことをおろそかにしてはならない、という理解をともに掲げ続けている。
 決して無理強いはしない。しかし過剰な気兼ねもしない。もうずいぶん前にふたりのあいだの決め事とした約束を、同僚たちは「言うは易し」とレビューした。全くもってその通りであると思う。だから多少回りくどいと言われようが、手続き感が強いと評されようが、横着せずに取り組むのだ。お堅く少し理屈っぽく、真面目で寛大で、どうにも気回りの鈍い自分にも根気よく付き合い、愛し続けてくれるパートナーのことが、轟は大好きだ。これから先もずっとふたり一緒にいたい。少しの気遣いでそれが成せるなら、何を面倒だなどと思うことがあるだろう。
 あれやこれや、熟慮するでもなく考え流しながら、洗濯物を畳み、所定の棚にしまい入れ、ついでに洗面台まわりの道具の補充と整頓に手を出し、その他こまごまと目に付いた仕事を片付けるまでの時間が経過しても、飯田はまだ部屋から出てこなかった。ほかに残った家事はないかと探したが、もうこれと言って見つからない。轟の帰宅前にほとんど済ませてしまっていたようで、やはり仕事は持ち帰ったのではなく突如発生したものであるらしい。
 そのまま手持ち無沙汰任せに特段散らかってもいないリビングとキッチンの掃除をし、遂にやることがなくなって、ソファに腰落ち着けて直近の天気やニュースのチェックを始めて二十分ほどが経過した頃、リビングの戸が静かに開いて、とうとう待ち人が姿を見せた。
「お。終わったか」
「ああ。ずいぶん待たせてしまってごめん」
 何度目かの謝罪に首を振り、思ってたより早かったぞ、と嘘ではなしに返して、中へ手招く。ゆるやかな足取りがまっすぐ歩み寄ってくる。
「少々トラブルがあって、急ぎの処理が発生してしまってね……でも君が声をかけてくれたから、頑張って早く済ませられたよ」
「そうか、お疲れさん」
 ねぎらいの言葉に頷きつつ、飯田は轟の隣にぽすんと腰を下ろした。動作が普段ほどきびきびとしていないのは、集中疲れが半分、もう半分は、まさに自分が途中で「声をかけた」のが要因だ。なるほど今日はそちらへ行ったか、と内心で笑みをこぼしながら、横からじっと向けられる視線を受け止める。
『きちっとした感じで先に誘うと、待ってるあいだに冷めたり気が変わったりするとか、いざ時間になったら逆に盛り上がらないとか、そういうのがちょっと怖いなーと思うんですけど……ありません?』
 そんな後輩の疑問に「あっても別に気にしないし、今のところうちはない」とだけ答えたが、実はむしろ、恋人らしいことをしたいと事前に申し入れ、あとの予定を確認する方法には、すれ違いの回避以外にもひとつ良い効果が付いてくる。しかしこれはあくまで我が家限定、相手が飯田天哉その人であることが条件の話だ。どういった形であれ、他人に教えてやるつもりはない。
「飯田」
 こちらを見つめるまま次の挙動を迷っているらしい恋人へ先に声をかけ、とんとんと自分の唇を指で叩いてみせた。ばかりと開いた大きな口からあっと声が漏れ、次の瞬間、花のほころぶような笑みが浮かぶ。
「おかえり、轟くん」
「ただいま」
 互いに身を横へ向け、広げ伸べた腕の中に入り合って、口付けを交わす。同棲開始数日目に轟からねだって始めた「ただいま(おかえり)のキス」は、今日までずっと変わらぬ習いだ。義務と見なしているわけでもなく、一日の仕事の荷を下ろす公私の区切りとして、単純に恋しい相手との幸福な触れ合いとして、ともに好んで続けている。時たまに挨拶の域をはみ出てしまうことがあるのは、まあ致し方なしの結果と言えよう。
 今日は粘らずすぐに離した唇から漏れた吐息は熱高く、ただ安寧だけをにじませたものではない。間近で覗く赤い瞳がほんのりと潤んで光帯びて見えるのも、疲労だけが理由ではない。
 とは言え打ち寄せる波にすぐには呑まれずに、掃除までしてくれたんだな、と飯田はまた轟への礼を口にした。
「君も帰ったばかりで疲れていたろうに」
「手ぇ空いてたし、立ってるものは猫でも使えって言うだろ」
「言ったっけなぁ……」
「それに少し動きたい気分だったからちょうど良かったぞ。今日は予定が変わって一日ずっと机に張り付けになっちまって」
 そうだったのか、と相槌する声は、常なら続かせるだろう感想やねぎらいもなくぶつ切りに終わり、やや音ひそめて上の空。腕に抱き寄せたままの身体が一段熱を上げ、言葉の代わりに心を語る。
 日ごろからTPOのわきまえを重んじる飯田は、その裏返しに、場の雰囲気や〝ノリ〟に乗りやすい、染まりやすいところがある。例によって「意外に」と頭に付されがちな性分だが、マイナスに働くことはあまりなく、持ち前の真面目さと誠実さの実証例、あるいは堅い外見に似合わぬ善きおかしみと捉えられることが多い。集団をまとめ引っ張るリーダーにふさわしい性質であるのだろうと、雄英在学時代、轟も飯田の美点のひとつとしてそれを評価していた。
 しかし今や自分は知っている。そうした飯田の染まりやすさが、組織的な活動の場に留まらず、一対一の、恋人とふたりの時間においても発揮されて、真面目さやおかしさとはまた別の、並ならぬ効果をもたらすことを。
「そうかぁ……」
「おう」
 今夜はまだ短い挨拶の口付けしか行き交わさせていないというのに、その唇の間からこぼれる意味のない声は、甘く蕩け果てている。
 いちゃつきてぇ、とごく軽く投じた希望が会話を通じて正式な予告となり、約束となり、ふたり暮らしの巣を包む空気となった。実際の色味は定かではない、おおかた浮かれた彩りであろう暖気に当てられた飯田の中には、「仕事が終わったら彼と『そういうこと』をするぞ」という思いが生まれ、じわじわと心身を染め上げていったはずである。――などと一から解説するとどこかサスペンスじみてしまうが、要は轟からの誘いを受け、冷めるどころか自分も大いに乗り気になり、仕事が終わる頃にはもう思慕の回転がフルスロットルに達して、期待値と愛情値が器の縁ぎりぎり、どころか表面張力で数ミリ上へはみ出ているような状態になっていたという話だ。そうしたさなかでも作業が怠慢あるいは注意散漫に陥ることはないようで、さすが委員長、とひそかに讃えている轟のお堅く真面目なパートナーは、なんとも単純で情豊かで愛くるしい人間なのである。
 〝そういう空気〟に染まった飯田の態度は一種に限らず、朗らかさと人懐こさを極めた大型犬のようになっていることもあれば、「さあいちゃいちゃしよう轟くん!」とやたらにしゃきしゃき登場して笑いを誘われることもある。近ごろは芝居めかした振る舞いで色香を見せてくるパターンも生まれ、大変ばかばかしく好ましい茶番劇となるのだが、今夜は飾り気のないしっとりモードのようだ。仕事疲れも反映されているやもしれない。
 ねぎらいの意を込めて撫でた背がぴくりと震え、しかし逃げを図る様子は微塵もなく、ほう、とまた吐息が熱く漏れ落ちる。
「お前、明日は昼からだよな?」
 飯田の提案で導入したスケジュール共有ツールを介して互いの予定は把握しているが、再確認を怠ってはならない。うん、と語尾にハート記号の付いた声で応えた飯田が微笑とともに頬へキスをくれ、一瞬後、あっと気付きの声を発して身を引いた。
「君は早出だったんじゃなかったかい?」
 後ろでぱたぱたと嬉しげに振れていた犬の尾(幻)が丸まり、ぴんと立ち上がっていた犬の耳(幻)が寂しげにしおれる。細めきって糸のようになっているやもしれない目で堪能しつつ、焦らしていじめる趣味もないので、もったいぶらずすぐに答えた。
「今日の予定が変わったついでで、俺も昼からになった」
「えっ」
 ちょっとしたサプライズになるかといたずら心が働き、ツール上の予定の更新を後回しにしていた。これだから都度の確認は欠かせないのだ。
 一緒にゆっくりできるな、と笑いかければ赤い瞳が瞬時に輝きを取り戻し、背景に色とりどりの花(幻)が浮かぶ。少々心配になるほどわかりやすい。
「お前すげえ頑張ってたから、お前がしたいことしよう」
「ほんとかい。やったぁ」
 どうしようかな、などと言いながら顔中にキスを降らせてくるので、とうとうこらえられずに噴き出した。成人してからますます物腰柔らかになったと評判の飯田だが、これほどまでにふわふわと甘い綿菓子のような態度を目にできるのは自分ぐらいだろうと思うと、優越感が天井知らずに高まっていく。今日はどんな染まり方をして出てくるかとびっくり箱が開くのを待つ間も愉しく、この瞬間の喜びのためなら、少し回りくどい方法だとておろそかにしようなどとは思わないし、自分の猫の手ぐらいいくらでも働かせてやるというものだ。
 ともあれ、このまま思考力の急低下しているらしい恋人任せにしていると、朝までに千回のキスをされて顔がふやけて終わりとなりそうだ。それも決して悪くはないが、せっかくゆっくり色々できたのに、とキス魔当人が落ち込み悔しがるだろう。轟のお堅く真面目なパートナーは、健全な慾を発揮することもできる愛にあふれた人間なのである。
「思いつかねぇか?」
「ううむ……」
「俺な、リビングだけじゃなくて風呂も掃除しといたぞ」
「え、あ……、最後にやるつもりで忘れてしまっていた……」
「じゃねえかなと思ってた」
 凄いな、なんて頼もしい猫くんだ、とキスの雨が豪雨になる。笑って受けつつ、背と腰をするりと意図持って撫ぜた。
「だから、一緒に風呂入っていちゃついてから、ベッドでもっかいいちゃつくってのはどうだ?」
 現状の共有、意思の確認。近々の課題はおそらく全て片付いている。
 立案は言葉が相手の鼓膜へ届いて脳へ伝い、ぱちぱちと四角い目を瞬かせるまでの数秒で吟味されて、一瞬間後の満面の笑みが承認を教える。
「……素晴らしい計画だ!」
 こちらの頭を覗いたかのような言葉が繰り出されたのにまた噴き出しながら、がばりと抱きすがってきた身体を受け止める。今日は色々ありがとう、と頬をすり寄せられ、お安い御用だと芝居めかして応えれば、行き交う笑いが深まり、幸いに満ちた計画の開始を告げた。あたたかな身を一度離して立ち上がり、風呂へ移動するまでにはもう幾ばくかの手順を要しそうだが、さしたる障害にはならないだろう。夜はまだ長く、明日の起床期限は昼前だ。
 感謝の心と礼の言葉を忘れない、も後輩へのアドバイスに付け加えるべきだったか、とは言えそれも当たり前の話だ、などと思い起こしつつ、計画の詳細を頭の中で整理する。暇に飽かせた猫の手は実に良く働き、布団の上にタオルとスキンとローションまできっちり揃えて並べておいたが、どんな反応が見られるだろうか。
「たぶん『ありがとう』だな」
「ん?」
 ことりと首傾げる恋人へなんでもないと笑いかけ、ゆるびきった頬を包み、幾百回目の方法でもいつも新たに胸ときめかす情夜の合図を、大きく愛くるしいその口に捧げた。


end.

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